ラストゲームは甲子園、後輩と対決。日本料理店から日本文理へ――大井監督の功績
日本文理・大井監督勇退に思う
新潟の勝利、その三分の一を勝ち取ってきた
私事ながら、新潟出身である。甲子園の勝ち星では最下位争いに甘んじ、ことにセンバツでは長く1勝もできていなかった。それを果たしてくれたのが、06年に初出場した日本文理だ。高崎商に、4対1。86年から同校を率いる大井監督は、感激のあまり目をうるませたものだ。
「新潟勢は1勝もしていないと周囲からいわれ……指導者は春が来るたびにつらく……プレッシャーはありました」
その後も先述の09年夏準優勝など、春夏通算14回の甲子園で12勝14敗。新潟勢全体でも通算31勝だから、新潟県民になった大井監督が占めるのが三分の一以上。間違いなく、新潟高校球界の功労者である。
日本文理(当時新潟文理)にやってきたころは、箸にも棒もかからないチームだった。宇都宮工(栃木)のエースとして、1959年の夏に準優勝。早稲田大では外野手に転向し、社会人野球の丸井でもプレーした。引退後は家業の日本料理店を継いでいたが、縁あって日本文理の監督になったのは86年、44歳のときだ。就任当時を振り返る。
「私はこっちに来る前、栃木で、高校野球の解説をしていたんです。関東のレベルに慣れた目から見ると、新潟の野球はやはりかなりレベルが下でした。ことにウチの野球部はひどかった(笑)。当初は、創部3年目でボールが1ダースしかなく、自費でボールを買い、選手の父親に打撃投手をやってもらったこともある。たまたま吉田篤史(元ロッテなど)が入ってくれたりしたけど、彼が打ち取ってもフライは捕れない、ゴロを捕れば悪送球。打つのも吉田だけで、コールド負けの連続でした」
そこから30余年。夏の初出場時(1997年)は、智弁和歌山に粉砕された。甲子園初勝利は、新潟勢初勝利と同じ06年センバツ。このときベスト8まで進むと、09年には文理にとって夏の初勝利から準優勝まで駆け上がった。さらに14年夏には、飯塚悟史(現横浜DeNA)らを擁してベスト4……。
「縁あって新潟県民となり、センバツ初勝利と8強、そして夏の準優勝を果たしたことで、多少なりとも新潟の野球に貢献できたかな」
と大井監督。総監督となる今後も、新潟の野球を見守るつもりだ。
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